闇に捕らわれた人質|The Hostage Bound in Darkness

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第三章|Chapter 3

再び夜が深まり、廃工場は闇に包まれていた。月は厚い雲に隠れ、窓から差し込むのはかすかな星明かりだけ。虫の声がじぃ……じぃ……と響く中、私は縛られたまま、終わりのない時間を刻んでいた。

空腹は胃の底でうごめき、喉は砂のように乾いている。長時間の拘束で腕は痺れ、足は鉛のように重い。背中には柱の硬さがずしりと根を張り、逃げ場を与えない。

――もう、限界だ。

無駄だと分かっていながら、私は思い切り力を込めて体をねじり、腕にや脚を大きく開こうと試みた。ロープがきゅっ、きゅっと鳴り、思い切り肌に食い込む。痛みが腕を駆け抜け、歯を食いしばる。
わかってはいたが、状況は1ミリも変わらなかった。

その時、遠くから聞き覚えのあるエンジン音が響いた。

ブウン……ブウン……。

――また、あの男たちか。

恐怖と同時に、わずかな安堵が胸をかすめる。少なくとも、まだ私の存在は忘れられていない。
完全に見捨てられたわけではない――その事実が、かすかな希望の光であった。

扉が開き、覆面の男たちが入ってきた。昨日と同じ三人組――
だが、彼らの様子がどこか変だ。これまでとは異なる張りつめた空気を感じた。

一人が無言で近づき、私の口に押し込まれた布を乱暴に引き抜く。
乾いた喉に空気がひゅうっと流れ込み、私はげほっ、げほっと咳き込んだ。今朝と同じようにミネラルウォーターのペットボトルとゼリー飲料のパウチが交互に押し当てられる。冷たい水が喉をさらさらと滑り落ち、甘酸っぱいゼリーが舌に広がる。

喉の渇きと空腹が少しずつ和らぐ――しかし、彼らの表情には一切の温度がなかった。

およそ半日ぶりにロープも解かれ、手首の束縛がふっと緩む。血が一気に巡り、痺れた腕がじんじんと蘇る。久しぶりに得たわずかな自由に、私は反射的に肩を回そうとしたが、すぐに動きを止めた。

――おかしい。

男たちの動きが、どこか荒い。
低い声で何かを話している。言葉の意味は分からないが、調子からして苛立ちと焦りが入り混じっている。
一人が壁をドンッと叩き、もう一人が何かをまくしたてる。ぴりぴりと張り詰めた空気が流れている。

私はじっと息を潜め、様子を窺った。
ロープは今、完全に解かれている。腕も脚も、今なら動かせる。部屋の扉も開いたままで、遮るものもない。

心臓がドクン、ドクンと速く打つ。
男たちの口論はさらに激しくなり、互いに掴み合う寸前の勢いだった。

その瞬間、私の腕を押さえていた男の手が、ほんの一瞬、ふっと離れた。
頭で考えるより早く、体が動いていた。

私は全身の力を振り絞り、驚く男の肩をすり抜け、出口へ――
勢いのまま部屋を飛び出すと同時に扉を閉める。震える手で鍵を探り、カチャリと回した。
金属の冷たい感触が、確かな現実の証のように指に伝わる。

――やった。

ほんの一瞬、心の奥が明るく弾けた。
だが、すぐにその光をかき消すように、扉の向こうから怒号が響く。

「――!!!」

怒りの叫びが壁を震わせ、ノブがガチャガチャと激しく回される。
ドアが何度も叩きつけられ、鉄板がぎしり、ぎしりと悲鳴を上げた。

私は体の向きを変え、足の裏で床を蹴り、気づけば工場を飛び出して闇の中を駆け出していた。
冷たい夜気が肺に刺さり、呼吸がひゅう、ひゅうと鳴った。

真っ暗な山道を、私はがむしゃらに走った。
砂利を踏みしめる音、落ち葉がざくざくと潰れる音。
心臓がドクン、ドクンと胸を叩き、息はひゅう、ひゅうと浅くなる。

――自由になれた。

後ろから足音は聞こえない。だがそれでも、油断はできない。
安堵感と、まだ終わっていないという緊張が胸の奥で交錯する。

山を下り続け、やがてふもとの方に人工の明かりが見えてきた。

――あそこだ。街がある。

希望の光を目指して、私はさらに足を速めた。
明かりは次第に近づき、やがてコンビニの看板が見える。
駐車場には一台の車。赤いランプが点滅している――パトカーだ。

――助かった。警察がいる。

安堵の涙がこみ上げ、頬を伝いそうになる。
もう少しで、この悪夢から解放される。

コンビニの駐車場に出ようとしたその時――。

突然、背後から口をふさがれた。

「うっ……!」

叫ぼうとしても、あまりに強く押さえつけられて声にならない。
力の限り腕を振り、もがく。

その瞬間――バチッという音とともに閃光が走った。
腰のあたりに鋭い衝撃が突き刺さり、全身に電流のような痛みが駆け抜ける。

――スタンガン。

その言葉が頭をよぎった瞬間、意識が闇に沈んだ。
最後の思考が消え、世界は完全に途切れた。

気がつくと、私は誰かに担がれていた。
揺れる視界の中で、足元の砂利がざりざりと音を立て、肩に食い込む男の腕の硬さが痛みに変わる。

腕は再び後ろ手に縛られ、口には布が押し込まれていた。息を吸うたび、湿った布の臭いが鼻を突く。
揺れる視界の先に、見覚えのある外壁――錆びたトタンの継ぎ目、剥がれたペンキ。
月明かりに照らされたその輪郭を見た瞬間、胸の奥で何かがカチリと音を立てて折れた。

――また、ここに戻ってきた。

男たちは無言のまま私を部屋に運び入れると、柱の前で乱暴に下ろした。
鈍い衝撃が腰に響く。床に散った砂埃がふわりと舞い上がり、鼻の奥がつんと痛んだ。

私は背中を押しつけるように柱の前に立たされた。
冷たい鉄の感触が服越しに伝わり、体がびくりと反応した。

犯人の一人が無言でロープを手に取る。その手つきには、はっきりとした苛立ちがあった。
逃げたことを責めるように、ロープは前よりもきつく、容赦なく肌に食い込む。
胸、太腿、足首――縄の締めつけが体を固定し、わずかな身じろぎさえ許さない。

「んっ……」

声にならない呻きが喉の奥で詰まる。
口に押し込まれた布の上からロープが頬を横切り、背後の柱へと回り込む。
そのまま幾重にも締め上げられ、頭全体が柱に縫いつけられたように動かなくなった。

――もう、自由に首を動かすことすらできない。

呼吸は浅く、息をするたびに胸が苦しく跳ねる。
目の前の空気がゆらゆらと揺れて見え、頭の奥で血がどくどくと脈打つのを感じる。

拘束が終わると、男たちは互いに短く目配せを交わし、何事もなかったように部屋を出て行った。
扉がギイ……バタンと閉まり、外でワゴンのエンジンが低く唸る。
その音が次第に遠ざかっていき、やがて静寂だけが残った。

虫の声。風が壁を擦る音。
夜の空気は冷たく、しかし皮膚の下にはまだ熱が残っている。

――逃げられない。

その言葉が心の底で沈殿し、やがて音を失っていく。
抵抗する気力も、希望を抱く力も、もうどこにもない。

縄の重みに身を委ね、私はそっと目を閉じた。

― 完 ―

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