闇に捕らわれた人質|The Hostage Bound in Darkness

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第一章|Chapter 1

夜の山奥。人の気配はとうに絶え、廃工場は闇に沈んでいた。
錆びついた外壁がきしり、月光を鈍くぬらりと弾く。ひび割れた窓の隙間からすう…と忍び込む風が、冷えた鉄と油の匂いを引き連れて室内をざわりと揺らした。
その一室で、ひとりの男が柱に縛り付けられていた。

背広の裾は土埃でざらつき、歪んだネクタイは喉を締める輪のように食い込んでいる。丸い顔は汗でぬめり、襟元の締め付けに合わせて胸がひくひくと上下する。刈り上げた髪に月が触れ、額の皺は影となってぐっと刻みを深めた。

腕は後ろ手に容赦なく縛られ、ロープが二の腕、手首、胸へと幾重にもぎしぎしと食い込む。太腿や足首もぎっちり締め上げられ、動きと呼べる余地はほとんどない。口には布を押し込まれ、その上からさらにロープでぐるぐると固定されている。もがくたび、きゅっ、きゅっと縄が擦れ、声はくぐもった呻きに砕け、喉の奥に鉄の味がじわりと滲んだ。

営業部長として今日も外回りに出ただけ――そのはずだった。独身、家族なし、52歳。平板な人生の先に、なぜこのような結末が待っているのか。揺れる月明かりが壁をちらりとよぎるたび、疑問は恐怖と絡み合い、胸をさらにきつく締め上げていった。

――すべては、偶然だった。

営業先に向かう途中、怒声と悲鳴が空気を裂いた。目の前の宝石店から、覆面の男たちがドドッ雪崩のように飛び出してくる。外国語の罵声ががなり立てるように響き、刃がギラリと閃いた。

気づけば私は彼らの逃走の線上に立っていた。
大柄な男がガシッと腕を捻り上げ、喉元に刃が触れる。ひやりとした冷たさが一瞬で全身を凍らせ、抵抗の意志を削り取った。私は荷物のようにワゴン車の後部へ押し込まれ、ドアの閉まる音が世界を切り離した。

車は街の灯を置き去りにし、山の暗い脈へ分け入っていく。エンジンのゴウン、ゴウンという低い唸りとともに、舗装の切れた道をガタガタと揺れる。

どれほど時間が経ったのか分からない。時計の針も感覚も、すべて闇に呑まれていった。
辿り着いたのは、息を潜めたような無人の廃工場だった。

男たちは迷いもためらいもなく動いた。
隅に転がるロープを手に取り、私の腕を後ろ手にギュッと縛る。
胸にも脚にもロープがきしりながら巻き付けられ、抗議の声は布で塞がれた。肺はひゅう、ひゅうと浅くしか膨らまず、酸素が喉の奥でかすれる。

柱に括られたあと、男たちは余計な荷物でも放るように視線を外し、気配ごとスッと消えた。残されたのは、静けさと暗闇と、そして自分自身だけだった。
耳鳴りのような鼓動が、ドクン、ドクンと胸の奥で孤独に響いていた。

時間の輪郭は溶け、外からは虫の声がじぃ……じぃ……と聞こえる。ときおり風が建物をぎしりと震わせ、古びた窓枠がガタリと鳴る。そのたびに胸がどくりと跳ね、戻ってきた足音を幻のように聴き取ってしまう。

縛られた体はじわじわと痛みに蝕まれ、腕は痺れ、足は氷のように冷えていく。背中には柱の硬さがずしりと根を張り、逃げ場を与えない。喉は砂を嚥むようにざらつき、唾を飲むことさえためらわれた。空腹は静かな獣のように腹の底でごろりと身じろぎ、胃をきゅうと縮ませる。

体をねじり、縄にわずかな遊びを探る。だがロープはびくともせず、擦れるたび皮膚がヒリリと痛む。
自分の力では外せない――その冷たい事実だけが、確かな手触りでそこにある。

――このままでは、命が危ない。

心の中でその言葉を反芻しても、現実は一歩も動かない。
見知らぬ山奥、誰の目にも触れない場所。
私はただ、縛られたまま、止まった時の檻に閉じ込められている。

不安はやがて形を変え、静かな絶望へと沈殿していった。
犯人はもう戻らないのかもしれない。あるいは、戻ってきて私を黙らせるのかもしれない。
どちらに転んでも未来はない――そう分かってはいるものの、この拘束された体ではどうしようもない。

力が抜け、肩で荒い息をつく。目を閉じると、闇がすぐそこに迫ってくる。
縛られた姿勢のまま意識はゆっくり遠のき、まぶたの隙間で月明かりが揺れては消えた。

最後に見たその淡い光を指先の記憶にとどめながら、私は音もなく眠りに落ちていった。

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