逃亡犯との夜|A Night with a Fugitive

TOC

第三章|Chapter 3

行為が終わり、気怠い沈黙が部屋を包んでいた。
男は俺の身体から離れると、シャワーを浴びてタオルで身体を拭き、冷蔵庫から新しいビールを取り出した。

俺はと言えば、汗と精液、そして男の匂いにまみれ、床に突っ伏したまま動くことさえできなかった。
全身の筋肉が弛緩し、心地よい疲労感と、まだ身体の奥に残る熱に包まれている。

男が俺のそばに座り込み、ビールの缶を俺の頬に押し当てた。

「……飲むか?」

口のタオルが少しだけ緩められる。
喉の渇きもあり、俺は貪るようにビールの残りを啜った。
冷たい液体が喉を通り、火照った身体に染み渡る。

「意外と素直だな」

男は短く笑い、荒い手つきで俺の頭を撫でた。
その無骨な掌の感触に、奇妙な安心感を覚えている自分がいた。ストックホルム症候群という言葉が頭をよぎるが、今はただ、この危険な男との時間に身を委ねていたかった。

窓の外が白々と明るみ始め、雀のさえずりが聞こえ出した。夜明けだ。

男は立ち上がり、身支度を整え始める。
散乱した衣服を身につけ、ポリ袋に残ったパンをポケットにねじ込む。

俺を見る目は、昨夜の激情はなく、どこか冷めた、逃亡者の目に戻っていた。

「なかなか楽しい夜だったぜ」

男は俺の財布から数枚の紙幣を抜き取り、自分のポケットに入れた。
全てを奪うわけではない。それが彼なりの流儀なのか、それとも俺への手切れ金代わりなのか。

男が玄関へ向かう。助かる、という安堵と同時に、置いていかれるという強烈な寂しさが胸を締め付けた。 俺は縛られたまま、必死に男の背中を目で追った。

男はドアノブに手をかけ、一度だけ振り返った。

「通報したけりゃしろ。俺はもう、ここにはいねぇ」

その顔には、微かな笑みが浮かんでいたように見えた。

ガチャリ。

ドアが開き、重たい鉄の扉が閉まる音が響いた。
鍵をかける音が、決定的な別れを告げる。

完全な静寂が戻ってきた。朝日は容赦なく部屋に差し込み、昨夜の痴態の痕跡――床の染み、乱れた衣服、そして無残に縛り上げられた俺の姿――を照らし出す。

「ん……ぐぅ……」

身じろぎすると、一晩かけて馴染んだ縄が、再び皮膚に食い込む。
昨夜の行為で体力は枯渇しており、自力で解くことなど到底不可能だった。

俺は床に顔を押し付けたまま、男の残滓を感じていた。
身体に残る痛みと熱、そして心に空いた穴。社会人アメフト選手としての日常は戻ってくるだろう。だが、この夜の記憶は、縄の痕のように、俺の心に永遠に刻み込まれることになるだろう。

俺は目を閉じ、遠ざかる男の気配をいつまでも探していた。

― 完 ―

1 2 3
TOC